家業を倒産させた致命的なミスをした私。バブル崩壊はただのきっかけ。

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東京の一等地を捨てて埼玉へ”遷都”

「バブル」と言われる超好景気は、本当に狂気の沙汰でした。
我が家兼我が社である自社ビルは30坪ほどの小さなビルですがなんたって東京の一等地、銀座ほどではないにせよ。
毎日「地上げ屋」が来ました。

バブルのピーク時のウチの地価、いくらだと思います?
3,000万円/坪。
バカみたいでしょ、どうかしてます。

そんなんだから、あの辺りはどんどん買収が進んで歯抜けのようになりました。
有名な 地上げ です。

問屋稼業は倉庫も配達車・営業車の車庫もけっこうなスペースが必要です。
30坪の自社ではまかないきれず、ご近所のあちこちに倉庫や駐車場を借りていました。

土地柄、賃料も高かったけどそれは長年のおつきあい、相場よりは安く済んでいました。
ところがその貸主が地上げでどんどん売ってしまうんです。

「売ることになったから出て行ってくれ」

そう言われても、ひしめき合っている都会でそのスペースを確保するのは至難の業、賃料だって信じられないくらいに高騰しているんですから。

果たして我が家と我が社は埼玉の、東京に隣接する某所に「遷都」したのでした。

都内から車で1時間ほど、今度はタテに高いのでなく、ヨコに広く倉庫も駐車スペースも十分です。

これを機に会社と自宅が別に♪ なりました。
まだまだ新米嫁の私はどれほど嬉しかったことか。
心から大喜びしました。
夢のような都会の好立地は惜しいけど、
「嫁」と「社員」を1日中境目なく同時にやるのはとても苦しかったのです。

移転は地価高騰のピークが過ぎて少し下がった頃でした。

もうすでにバブル崩壊の兆しが出始めていたのかもしれませんが
空前の好景気に業績も順調で、夫も義兄もそうとは気付かなかったと思います。

私は私で嫁としても社員としてもまだまだ新入りで発言権ゼロ、移転に関しては完全に蚊帳の外でした。
仕事場と住まいが別になる喜び、それがすべてでした。

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バブル崩壊、新規事業がさらなる危機を招く

湾岸戦争でパトリオットミサイルがスカッドミサイルを迎撃する光景を、新居のテレビで見た記憶があります。

高騰しすぎた地価を懸念する声、湾岸危機の影響など、バブルは少しづつ弾け始めていても、移転して数年は業績も良かったと思います。

1990年代、日本でも「インターネット」の活用が一気に広がった時代です。
1995年、「WINDOWS95」が世界的に大ヒット、「YAHOO!」がサービスを開始、企業だけでなく個人が「ホームページ」を開設するようになりました。

その頃からじわじわと、右肩上がりだった業績はやがて右肩下がりになり、下降の一途をたどるようになります。

バブル景気は完全に終わりを告げました。

夫は資金繰りに相当苦労するようになり、もうダメかも、と口にするようになりました。

あれほど借りてくれ、借りてくれとうるさかった銀行は掌を返したように冷たくなりました。
有名な「貸し渋り」「貸し剥がし」の頃です。

結婚して10年、私もようやく家業でも家庭でもそれなりの立場が出来てきて、営業の一翼を担えれば、と思い自社のホームページを開設しました。

その当時、企業のホームページ制作は専門業者に依頼するのが一般的でしたがそこに投入するお金はなかったので自分で作りました。
大変だったけど、結婚するまでコンピュータ業界にいた私は多少の知識があり、それが役に立ちました。

このホームページ自体はほとんど業績アップに貢献しませんでしたが、私の人脈はかなり広がり、今までの我が社のカテゴリーにはない仕事や相談が舞い込むようになりました。

ココがシロウトの浅はかさ。

いい気になった私は ”新規事業” にまい進します。
もちろん、食品の問屋らしく食品ジャンルの範疇ではあるし、問屋という業態の特徴を活かせるものではあったけれど、ちょっと上手くいったからって、なんと新会社まで設立してしまうのです!

アホ過ぎます。

本来の家業の問題は?
窮地に陥った家業を、どう立て直してゆくのか。
小手先の対症療法ばかりでなく、根本的な対処をせずに新しいことを始めたって上乗せでお金がかかるばかりです。

まるで新しい玩具に夢中になって、古い玩具を放り出す子供のようです。

今ならわかるそんなカンタンなことにも気付かない私でしたが、
夫も冷静な判断力を失っていたのだと思います。
渋い顔はしましたが、なまじっかちょっと上手くいっていたので反対しきれず、あるいは藁をも掴む心境だったかもしれません。

国民金融公庫(現・日本政策公庫)でお金を借りて、めでたく法人設立が叶いましたが一筋縄では行きませんでした。

例えば、私がお金を借りるのですが当然夫を連帯保証人にします。
ところが夫は家業のほうの代表ですから。

真っ先に 妻を使って資金調達を企てている と思われるわけです。
(普通、誰だってそう考えるのが常識ということを知りませんでした)

また例えば、法人登記を完了するまで資本金を銀行に預け、資金がきちんとあることを銀行に証明してもらう手続きが必要ですが(当時は。今は違います)、これを引き受けてくれる銀行がなかなかなくて困りました。
ただでさえ金融機関の態度が硬化している時に、そんなアヤシイ話に乗ってくれるアホな優しい銀行はありません。

2004年、とにかくあの手この手でなんとか会社設立までこぎつけました。

家業の社屋の一角に 事務所(新会社事務コーナー)を作り、滑り出しは順調でした。

大手企業とのコラボもいくつか出来ました。

そうして生まれた商品が某有名カフェチェーンの店頭に並んだり、テレビやラジオ、有名女性誌に取り上げられたりしました。

いよいよ波に乗って、コラボじゃなくて100%オリジナル商品を開発!
新会社は ”卸” じゃなくて ”小売り”で勝負だ!とばかりに都内のデパートの催事に出まくりました。

そうした実績で、銀座のデパートに常設店舗を構えるまでになりました。

業務が膨大に増え、従業員を雇い、都内に小さな倉庫兼事務所を借りました。

銀座のデパートの威力はバツグンです。
インターネットで商品レビューを書いてくれる方が現れたり、雑誌で特集が組まれたり。

こうなると、いっぱしの ”ブランド” としてのイメージが出来てきます。
吹けば飛ぶような小さな会社の内情とは裏腹に・・・。

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倒産の引き金を引いた致命的な ”選択”

表向きの ”顔” が出来上がってゆくのと反対に、早くも資金繰りは苦しくなって来ました。
売り上げはそこそこあるにはあったけど、直販はインターネットでごくわずか、収入の柱はデパートのテナントですから、入金は2か月先です。

返済、人件費など毎月の固定費は当然で、もとより収入と支出のサイクルは合わないものですが、さらに製造コストが大幅に増えていました。

仕入れは新会社では思うに任せず、ほとんどを ”本体” である家業に頼っていましたので、これはそのまま家業を圧迫しました。

私はここで、致命的なミスを犯します。

この頃、催事出店の成績が良かったので、来年、年明けのイベントで挽回しようと思ったのです。

都内有名デパートの催事8か所。
それぞれ3日~1週間程度の出店で、売り上げ見込み2,000万円。

準備は相当大変でしたが踏ん張りました。

ところが!
バブル崩壊後の超不安定な状況の中、年内まで好調だったデパート自体の集客数・売り上げが年明けにまさかの冷え込みを見せたのです。
全国の百貨店が軒並み想定外の落ち込みようで、ニュースになったほどです。

終わってみれば当社の売り上げも目標の四分の一。

それでも支払いは待ってくれません、当たり前です。
収入がないのに請求書が次々に来て・・・。

たとえ支払いを先に延ばしたとしても、テナントの売り上げだけでは到底追いつきません。
そもそも先に延ばすなんてことは出来ません。

家業も、もうそれをフォローする力は残っていません。

でも、私の考えたオリジナル商品のために、私のために懸命に頑張ってくれた人たち、原料屋さん、製造メーカーさん、資材屋さんへの支払い、従業員や売り子さんたちの報酬は、なんとしても工面しなきゃ。

そうは言っても、もうお金を貸してくれる所なんて1つもありません。

こういう時にヘンな知恵を付けてくれる人がいるもんです。

その手があったか!

アコム、アイフル、プロミス、レイク、モビット、武富士(この時はまだあった!)。
おおよそ思いつくサラ金から借りまくりました。

サラ金でお金を借りるなんて初めてですから、信用情報はキレイなもんです。
日を置かずに一気に行けば他社の借り入れ状況もデータがないと見えてすんなり貸してもらえました。

どんなお金でも良かった。
とにかくお金が必要でした。

そして、一巻の終わり。

家業、私の会社 もろとも、すべて終わり。
夫と私は倒産の準備に入りました。

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